火山の噴火によって一瞬にして失われたローマの古代都市ポンペイで、大がかりな修復プロジェクトが進んでいる。陣頭指揮をとるイタリアの考古学者マッシモ・オサンナ氏は、「2000年前の社会を目の前で写真撮影したかのように」当時の姿をはっきりと克明に、そして多角的に現代によみがえらせたいと考えている。
山のようなデータから浮かび上がってきたのは、現代の私たちの生活に驚くほどよく似た社会だった。紀元1世紀のポンペイには、多様な文化が混在し、さまざまな言語が飛び交い、人々はファストフード店でランチをとり、高級輸入食材を自宅で楽しんでいた。
災害に次ぐ災害
イタリアのナポリ湾に面するポンペイの街は、大災害の代名詞として歴史に名高い。紀元79年、近接するベスビオ山が噴火し、一瞬にして多くの住民の命を奪った。19世紀半ばに本格的な発掘が始まってからは4度の大地震に襲われ、さらに幾度とない人災にも見舞われた。
第二次世界大戦中の1943年には、連合国軍による爆撃を受け、多くの重要な文化財が破壊された。戦後には、犯罪組織とつながりのある建築会社の手によってずさんな「修復」工事が行われ、爆撃よりもさらにひどい損傷を受ける結果となった。2度にわたる大戦と4度の経済危機による人員と経費の削減で、ポンペイの大部分は荒廃し、危険地帯と化してしまった。通りには野良犬がうろつき度重なる洪水で土台の浸食も進んでいる。
2010年末には、観光名所の一つである「剣闘士たちの家」が突然倒壊し、発掘済みの遺跡内で観光客が入場できる範囲はわずか13%に限定されてしまった。一般公開される建物は1956年には64棟あったが、10棟まで減った。
事態の深刻さに、ようやく政府は重い腰を上げた。2012年には、欧州連合が7500万ユーロの緊急資金を、イタリア政府もさらに3000万ユーロを遺跡修復のために拠出した。
ポンペイは、このまま見捨ててしまうには魅力的過ぎる。数百年にわたって十分な保全策がとられてこなかったにもかかわらず、年間300万人の旅行者が訪れ、中国の万里の長城、西安の兵馬俑坑、ローマのコロッセオ(円形競技場)、同じくローマのフォロ・ロマーノに次いで、世界で5番目に人気の観光名所となっているのだ。
最上級の観光名所へ
オサンナ氏のチームは、考古学史上まれに見る野心的なポンペイ修復事業の陣頭指揮を任された。「グレート・ポンペイ・プロジェクト」と銘打たれた事業の目的は、数々の災難に見舞われてきたこの遺跡を2017年までに最上級の観光名所へと変えることである。
現場では、200人以上の専門家や技術者が働いている。建築家12人、考古学者12人に加えて、れんが職人、電気工、配管工、塗装工、大工、写真家、歯科医師、放射線技師、生物学者、地質学者、地図製作技術者、コンピューター科学者、美術品復元の専門家、さらに、先端診断機器に詳しい医療エンジニアや、洪水を防止する水工学者といった顔触れがそろっている。
今回のプロジェクトで特に注目されているのは、犠牲者の詳細な体内画像を作成するコンピューター断層撮影、いわゆるCTスキャンの導入である。
スキャンにかけられた遺体は、過去の発掘で火山灰の中から掘り出されたものだ。1863年から1875年にかけて発掘調査を任されていたジュセッペ・フィオレッリ氏は、犠牲者を閉じ込めたまま冷えて固まった火山灰に石膏を流し込み、元の体を見事に再現した石膏像を作成した。
歯は人間の体の中で最も耐久性があり、また人によって異なる特徴をもつ。ポンペイに残る歯を見れば、その持ち主が管楽器を吹く演奏家だったのか、くぎを口にくわえる大工だったのかが分かると、プロジェクトに携わる歯科医師たちは言う。また、犠牲者の性別、年齢、出生地、社会経済的地位を推測するのにも役立つという。
データ分析はまだ初期段階だが、作業が進むにつれて、ローマ帝国が全盛期にあった当時の様子が少しずつ明らかになってきた。それは、21世紀の現代社会と驚くほどよく似たものだった。
今日でいえばロンドンやニューヨークに匹敵する人種のるつぼとして、ポンペイにはローマ市民、帰化した外国人、奴隷の身分から解放されて職人や商人になった人々が集まり、豊かな社会を築いていた。
食生活は健康的で、未精製の小麦、オート麦、大麦、それにひよこ豆や果物、木の実など、現代なら栄養士お勧めの健康食品店で売られているような食べ物が多かった。味の引き締め役としての高価な輸入香辛料、さらにエジプトからはレンズ豆、アラビア半島からはナツメヤシなどの珍しい食材も入ってきていた。「彼らの食生活を見ると、とても商業的な文化だったことが分かります」と、オサンナ氏は語る。
その一方で、ファストフードのような軽食を出す店も市民から人気を得ていたことが、遺跡からうかがえる。「どの地区にも、地元の人々がランチを楽しめる『テルモポリウム』と呼ばれる飲食店がありました」と、40年前から遺跡のガイドを務める歴史家のマッティア・ボンドンノ氏が説明してくれた。
ボンドンノ氏の案内で遺跡を歩くと、小さな食堂には、料理を入れる素焼きの器が並んだ石のカウンターがあった。「どうです、これがポンペイ人のファストフード店ですよ」
14(木) 10:52:40.56 ID:avpHgMgb.net
暴言や戯言を石に刻んだらしい
かなり文明社会だったと思うよ
古代を資料が少ないからといって
想像で未開社会に扱い過ぎだと思う
人間の日常生活なんだから感情も欲も同じだし
生活だけならあまり変わらんよ。
あの壁画とか彫刻とか
2000年前というと日本だと弥生時代で竪穴式住居じゃねーの?
してるな。金を詰めた鞄を抱えて避難中に窒息死したおっさんの
遺体とかもあるし。犬を連れて避難中に死んだ人の遺体に、
犬にかじられた跡があったり (犬もその傍らで死んだが)。
難しい事を言ってもしょせんは口だけの文句タレ
そうそう、2ちゃんもあったんだよねw
政治に愚痴言ったり、アイドル的美人を賛美したり
瓶の絵の下はワインの値段)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ad_Cucumas_wine_selling_inscriptions_Herculaneum.jpg
"EXSI" (お前の負けだ)
"NON TRIA, DUAS EST" (3じゃないよ、2だぞ)
http://www.pompeiiinpictures.eu/r6/6%2014%2036_files/image019.jpg
使われてるな。現代イタリアの橋は落っこちたりするけど。
中世には作る技術も失われて、
「(人間には作れない)悪魔が作った橋」とか言われてたらしい
多くの重要な文化財が破壊された。
日本だけじゃないんだな。米軍による文化財破壊は
しかも市民と奴隷の差別は少なくて家庭で一緒のトイレを使っていた。
アメリカの黒人奴隷とはまったく異なり、
奴隷は人種に関係なく黒人の上流階級が白人奴隷を使役することもあり
奴隷は解放されて市民になることも出来て、かなり民主的な社会。
上下水道が完備されペストが流行った不潔な中世ヨーロッパより先進的で清潔。
町には公共の風呂と水洗トイレが完備して市民の社交の場所だった。
最底辺の奴隷も飢えに苦しむことなくお腹いっぱいに食べれていた。
アメリカ黒人奴隷のような飢餓はなかった。
今の日本社会よりかなりましだわな
独立して商売を始められるようになってたらしいね。
その奴隷のファミリーネームが元の雇い主の名前になってるらしい。
ギリシャ時代からそう
何処の国だろうが本質的なことは何も変わらないからな
ただただ科学技術の進歩によりそれに伴った社会的変化があるだけだ
これまでもずっと、これからもずっと