藤田派 原
王派 クロマティ
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藤田派 齋藤、村田
王派 吉村
流れ的には長嶋派の筈だけど
長嶋ともそれ程親しくない。
強いて言えば読売グループ内の氏家
(ナベツネの盟友で前日本テレビ会長)派。
王のことはワン公と呼んで、藤田のときはコーチ就任要請を拒否
(当時はたぶん解説者とかテレビ人は相当もうかったはず)
長嶋が監督に復帰したらあっさりコーチ就任したし。
中畑は監督になって藤田さん墓参り報告してたな
つーかいまだに特定の監督を絶許してるやつのが少なくないか
斎藤だって王と和解したらしいぞ
第三派閥は広岡森派
広岡と森は犬猿の仲だよ。
広岡は反川上派、森は親川上派と立場も違うし。
パリーグに回っていたのは藤田系が強くて
巨人にいられずで長嶋復帰でコーチになる
んで巨人に未練たらたらなこの二人は
先々で巨人では、巨人では…な人になり嫌われた
成績振るわずその後巨人コーチ
高田は藤田の下で一年のみヘッドコーチ
堀内は長嶋派
宮田は第一次長嶋王第二次藤田第二次長嶋でコーチ
駒田は藤田派
もしかして原だけじゃねーのか
黒江は広岡森派だがどの派閥でも渡り合えたな
そういえば広岡森派はもう巨人にいないの?
>>9
選手時代は藤田派でONとはそりがあわなかったが
監督なってから王を理解し、今は長嶋派のドンである原
上田大森 藤田派
鴻野呂勝呂 王派ってくらい
露骨に控えメンツの起用に差が出たよな
野手控えなんて
さして重要じゃないから監督の好み出るけど
そりゃ藤田に優遇されるわな
長島に戻った途端二軍に戻り
その年すぐ首の上田は
わかりやすい
スタメン抜擢された川相&緒方
レギュラー固定された岡崎
ローテ入り斎藤雅&宮本あたりも藤田派
由伸派
井端、二岡、脇谷
ここまでまとめ
長嶋派
土井、高田、堀内、西本、篠塚、江川、中畑
藤田派
原、上田、大森、駒田、齋藤、村田
王派
吉村、鴻野、呂、勝呂
東映時代の仲間で当時阪神の江本孟紀に
「乱闘になったら瀧を蹴飛ばしてくれ」
と頼んだらしい。
張本の巨人4年間は
滝は2年間二軍コーチやって退団してたから
多分別の人物のはず。
それは柴田
あと鹿取は王派?
鹿取は王派だと思う
藤田が監督の時にトレードで
長嶋の時投手コーチになるも
長嶋と宮田の二人と合わず
桑田は当時のスキャンダルで守ってもらたり
仲人だったり完全な藤田派
あれは長嶋だろ
長嶋と藤田は他球団以上に不仲だったみたいだけど
結局険悪なのは川上と長嶋で
藤田とは元々六大学閥でそこまでではないはず
川上派→藤田派
でいいのか?
>>34
千葉派→長嶋派の方が正解かと。
ポスト水原の次期監督争いに端を発する派閥なので。
ちなみに与那嶺は千葉と1、2番コンビを組んでいた事もあって、
常日頃からコミュニケーションを欠かせない一方
川上とは首位打者争いの最大のライバル
だった事もあって疎遠だった事から
(当人の意識はともかく)分類するなら千葉派。
千葉と一緒に近鉄に移籍した
大友工、内藤博文あたりも
千葉派だったのかな。
近鉄監督時代の千葉に不満を持っていた。
事ある毎に巨人では~と言って
チームから総スカンを食らった土井正三と被るな
このテの話題になると決まって、
「正力オーナーも藤田監督も慶応だったから、
上田は学閥で縁故採用され入社後もエコ贔屓された」
って話が出てきますが、そもそも1984年のドラフト会議では
巨人は明治の竹田を一位指名して、抽選を外して慶応の上田を採った。
竹田の現役時代を考えたら、
まだ上田の方がマシだったと言えるの
では。
瀧安治はV9時代の控え内野手→二軍コーチを経て、
文芸春秋社お抱えのスポーツライターになった。
文春はNumberで「長嶋監督頑張れ」特集を組む一方で、
週刊文春では瀧の連載コラムで長嶋監督をチクチク批判してた。
長嶋解任も、1980年の夏場にV絶望になった時点で催された、
彼が司会の週刊文春でのOB座談会が引き金になった。
内容は長嶋采配大批判大会。
裏切り者イメージの強い瀧だっただけに、
第二次藤田監督時にコーチとなったのは、
意外の感で受け止められた。それも一年で辞めたため、
結局は評論家としてのネタ仕入れのためだったのでは、
と勘ぐられた。
>>43
当時のジャイアンツはショートの河埜が衰えてきていたので
その後釜を獲得する事自体は方針としては間違っていなかったと思う
問題はその後釜に上田を選んでしまった眼鏡違いにある
後年、大森を一位指名した時も、主力の野手に衰えが目立ってきたので
長距離打者を獲得すると言う方針自体は間違っていなかった
こちらも問題は、そこで大森を選んでしまった見る目の無さ
上田も大森も六大学では活躍していたし、五輪の代表チームにも
選ばれていたのできっといけると踏んだのかもしれない
それに慶應なら獲得しやすいわけだしね
上田を選んだ事自体は間違いとは思わんけど、
他球団でドラフト下位評価の彼を
わざわざドラ1指名したのが最大の間違いだ罠(´・ω・`)
上田がプロ入りに全く興味が無く、既に就職先の目処もついていた
(内定を貰っていたらしい)事情があったにしても。
普通そうなら、上田を諦め
他のドラフト下位で入団しそうなショートに目を付けるわな。
長嶋派
土井、高田、堀内、西本、篠塚、江川、中畑
藤田派
原、上田、大森、駒田、齋藤、村田
王派
国松、柴田、吉村、鴻野、呂、勝呂
この国松に感じるじわじわ感
「ナボナはお菓子のホームラン王です!」
ただ問題のある奴は二岡のように排除されるが
桑田と仁志は指導者で呼ばれなそう
二人とも指導者の適正あるとは思えないが
仁志は他球団からお声がかかるやもしれんが、
桑田はどこからも誘いはなさそう。
だいたい桑田は公共の電波で
巨人にしかいなかったので他球団には興味ないですし、
パリーグの選手なんか名前どころからポジションすら知りませんだの、
お願いですから巨人OBの僕に他球団のことを質問しないで下さい。
答えようがないです・・etc
これじゃ誰からも相手にされんどころか野球人失格w
斎藤雅・村田とか
藤田派の人間がそのまま原派にシフトしてるっぽい
第二次長嶋の時にもコーチで呼ばれなかったし
1軍コーチの堀内との軋轢とか当時書かれてたな
それもあってか結局1軍に呼ばれることもなく引退
優勝できないとコーチが引責辞任
篠塚みたいにずっと一軍コーチという例もあるが
須藤なんて94年限りで辞めたかったみたいだが
優勝したので翌年までやった
打たれても打たれても使い続けてくれたと
選手にとっては自分を使ってくれれば
良い監督って事だよねえ
そら真実だわ
バース掛布平田には最低評価の某ザトペック監督(故人)も
少年隊の三人には恩人やからな
原も長嶋派につくとは思わなかった
清武って王や藤田の系譜を可愛がって使っていた
(清武吉村の育成は良かった)はずだから
原はそっちについて長嶋派敗れたりかと思ったけど
国民栄誉賞の時はもう長嶋派そのものであった
原は藤田派変わらんし
中畑も監督受けてから藤田墓参り等藤田路線だし
高橋由伸も藤田系だし
長嶋派なんて消滅するだけ
清武も長嶋派を追い出してきたからな。
実際はどうなんだろうな。
王の一本足打法はキッパリ断った話は有名だけど
一本足を断ったのは駒田だな
糞みたいな使い方したが藤田に対する原がそうだった
自分になつくからってあそこまで聖域にせんでもいいのに
巨人ってそういう論理があるんだよな
なぜ現場復帰しなかったんだろ?
>>76
正力亨元オーナーが嫌っていたっぽい。
監督退任後、巨人から与えられた仕事は
無任所での少年野球の指導で
巨人並びに正力亨オーナーから疎んじられていると察知した川上は
読売を離れ、NHKに去った。
只、その後も務台会長との個人的関係は保っていて
務台氏の相談相手となっていた事から
務台氏の逝去まで球団並びに球界に強い影響力を行使する事となる。
しかも、事もあろうに、報知の天敵、日刊に所属したもんなあ。
邪魔なだけだった。
あいつの顔色伺うかのごとく上田をドラ1とか
舐めてるとしか思えなかった。
正力は長嶋の解任もシドロモドロで言えなかったし
居なくなった後にも長嶋 長嶋とマスゴミの前で言うので
当時監督の藤田に そんなに長嶋言うなら私をクビにして
長嶋を戻せばいいだろ!っと怒られてから大人しくなった
本当に無能だった
川上氏は長嶋巨人の一年目、1975年に球団常務の地位に就いた
けれど、「長嶋がやりにくくなるだろうから」というのを理由に
一年で辞めました。その際には自ら「少年野球の指導はやりたい。
NHKの解説の仕事にも色気はある」と言ってました。
長嶋監督にも第一次監督辞任(解任?)後、球団から常務のオ
ファーはありましたが、これは自分で断りました。
正力亨氏は、大正力の息子というプレッシャーにさいなまされ
た生涯なのでしょう。慶応野球部では名マネージャー、その後の
海軍経理学校でも優秀だったけれど、乗務していた船が敵の攻撃
で沈められて暫く漂流生活を送り、救助されたもののその経験が
元で精神に異常を来たした。たまに奇矯な言動をとるのは、それ
が一因しているのだとか。
遠藤周作氏との対談で江川事件の件を批判されたら、「ル-ル
の隙をつくのは『紳士たれ』に反しない」、「私有物とはまた違
うけれど、巨人軍とはオーナーである私のものなのです」なんて
言ってた覚えが。
務台派=藤田、王派
でいいのか?
>>80
ややこしいのは亨と藤田とで慶大閥としての結び付きがあるって点でね。
逆に言えば亨オーナーを敵に回さない様、長嶋(第1次)の後釜に亨オーナーと
同じ慶大OBの藤田を監督に据えたとも言えるかと。
又、王監督についても亨オーナーは長嶋の時と同様に庇っていて、王解任の時も
(恐らく同様の理由で)慶大OBで亨オーナーも「便利屋の様な監督生活で悪かった
な…..」と気に掛けていたらしい藤田を再び監督に据えたと。
とまぁ務台元会長は明らかに亨オーナーに対して遠慮があったけど、1991年に逝去
した務台に代わって読売グループ総帥に座ったナベツネさんは亨を名誉オーナーと
して事実上の引導を渡した上で、(ナベツネさんと盟友とも言われた中曽根元首相宅
(都内)の大家繋がりの)長嶋の半永久政権体制を築く事に。
又、ナベツネさんにとっては浪人生活の長嶋に、ロッキード事件絡みで不遇を囲った時期(なんでも社会部方面から「この際ナベツネのクビまで獲ってやるわ!」と息巻く声が公然と社内で響いていたらしい)の自分と、重ね合わせた部分もあった様にも。
正力オーナーは長嶋解任後
暫くはマスコミに長嶋~長嶋~と言ってたから
藤田監督は大激怒してオーナー室に乗り込んで
そんなに長嶋長嶋言うなら私をクビにして
長嶋を戻せと言われて
それから2度と長嶋の名前をマスコミに漏らさなくなった
で整理すると
亨→反川上の一点のみで、長嶋、王、藤田とは基本親しい。
務台→親川上。茶飲み友達の1人。
ナベツネさん→(多分に政治的な意味合いの)長嶋シンパ。
で、務台-川上ライン(あくまでも務台が軸)が長嶋降ろしの目的で、元巨人のエース
投手ながら、黒い霧事件の余波で大洋のコーチを務めたり、NHK解説者に留まってい
たりと不遇を囲っていた藤田に接近した(又、藤田も巨人復帰を叶える為にそのレール
に乗っかった)って感じじゃないかと。
ナベツネさんのバックアップで球団の全権を握った格好の長嶋が森監督の巨人監督の
就任の噂が立った際に面白い事言っていたみたいね。
「二枚舌は良いのよ。嘘も方便、俺だって二枚舌位使う。しかし三枚舌は駄目だ。」と。
多分、「藤田は(今となっては)許せるけど、森なんかじゃ死んでも許さない。」
というのの長嶋なりの表現だったんだろうな。
吉村篠塚は巨人の首脳陣復帰はないな
村田が打撃コーチ
10年4連覇逃した時伊原が辞任篠塚緒方西山が首
本当ロクな指導者いないな
原を除けば無能ばかり
西本篠塚の長嶋派の方がマシなレベル
投手いじり回してタイプ違う投手にもシュート強制させてたってな
篠塚は何の実績もない。天才肌だから凡人に何も教えられない。
篠塚ならカーチェイスやるようなドライビングテクニックなら教えてもらえるかもよ。
車庫飛ばしのやり方とかな
三原-長嶋
藤本(定)-川上-藤田-原
-王(川上派から分立)
水原-広岡
後任予定
長嶋派:松井
王派:小久保
原派:由伸
広岡派:工藤
南海残党はちゃっかり王派に加入してるな。
王派=中間派との解釈かと。
川上に極近いとされた藤田監督が長嶋寄りとされたナベツネさんとの軋轢に依る
退任に際して、中間派を担ぎ出す事で敵対関係の長嶋監督就任阻止を図ろうとした
なんて筋書きは一般社会でもありがちな話だしな。
ただどっちかといえば藤田寄りな気が
>>111
国松は生粋の川上派だよ。
川上は以前から国松を監督候補に考えていたらしい。
1961年に監督に就任した川上哲治が猛練習を貫き、前人未踏のV9を果たすのは、65年が第一年であったが、それまで、62年と64年にはペナントレースで勝てなかった。両年とも監督藤本定義の阪神がセで優勝した。巨人は62年は、阪神、大洋、中日の次の4位で、秋に東京五輪が開かれた64年は、阪神、大洋、巨人で3位だったが首位阪神になんと11ゲームの大差をつけられた。
ペナントレースが終わると、外野手国松彰(亀屋万年堂会長)がポツンと言った。「勝てないのは弱いからです。弱いということは下手だということです。下手だということはもっと、もっと、練習をしないといけないということです」国松のこの想いは純で立派だったが、選手にこうも思わせた監督川上の教育は見事だった。
のちに川上は二軍監督を務めた国松を将来巨人軍監督にと、考えていた。同志社大の左腕投手国松が巨人軍に入団したのは55年であるが、すぐにその春の中南米六か国遠征のメンバーに抜擢された。講和条約から2年4か月が経っていたが、当時、パスポートは彼の場合なら京都府警に申請しなければ交付されなかった。球団が手続きを進めてくれるわけではない。出発前の東大球場での練習の間をぬって夜行列車で京都に戻り、府警に出頭して10本の指の指紋を取られ、やっと貰えた。
キューバでは、のちに阪急にやってくるバルボンが、まだ補欠だった「シュガーキング」戦に登板。コロンビアでは、かつてのスペイン艦隊の拠点、カルタヘナから奥地に入ると悪路が続き、オンボロバスは大雨後の橋の手前で動かなくなった。日が暮れる。“不動の4番”川上がユニホームのままバスの屋根の上でねむった。
帰国すると出発前に入っていた多摩川寮の彼の部屋は他選手に“占領”されていて、彼の荷物は廊下に放出されていた。遠征で成績を残さないとこうなる。彼は寮の近くに間借り。寮生でなくなったので寮のごはんは食べられない。角のちいさな店でコッペパンを買って食べた。給料日に、マーガリンを塗って貰うのが楽しみだった。15円。
58年打者に転向。河川敷球場の規則で多摩川グラウンドが市民開放になる日は二軍は休日になったが、国松は飛んで行って町のチームに最敬礼。「10分間貸してください」。心打たれた高知商出身、新人小松敏宏が投げ終わるとお礼に二人で審判。夜はまた練習。トバクなどやっている暇などない。
59年6月3日、国松は北海道シリーズ札幌円山球場での対広島連戦に起用され計7打数5安打。外野にタンポポが咲いていた。遡るが、49年軟式から入団した投手大友工は夜、河原でシャドウピッチング。100回で小石をポケットに。5つ貯まると帰寮した。カチカチと鳴る石の音は勝利への鐘の音とも言えた。巨人軍の伝統は猛練習である。新巨人は伝統を戦い取らなければいけない。
巨人が国松監督だなんて世間が許さないだろうw
川上さんと長嶋さんの二大英雄の
理想とする野球、チーム作りが
相容れなかったところに巨人の深い悲劇があるんですね。
川上さんの管理野球の継承者として
広岡、藤田、森監督が現れたのに対して
長嶋さんの閃きと冒険と感動の野球は誰にも真似ができない。
藤田って管理野球か?
川上や広岡に比べて選手を甘やかしてた印象が強いが。
星野仙一が長嶋藤田王時代で1番厳しかったのは誰?
っと3人と仕事した選手に聞いたら全員が藤田監督だってさ
長嶋 野武士野球
なんだろうな。
>>121
長嶋は野武士野球(自由放任野球)じゃないよ。
選手に砂押直伝のスパルタ猛練習を強制したし、
鉄拳制裁もしょっちゅうしてたし、三原や仰木みたいな
放任スタイルじゃなかったよ。むしろ西本幸雄に近い。
違うよ。川上と長嶋の野球観の対立は、
サッカーと同じで守備的な野球か攻撃的な野球の違いだよ。
川上、広岡、藤田、森、星野、落合は一点を守りきる守備的な野球
西本、長嶋、王、権藤は一点でも多く取る攻撃的な野球
川上派と長嶋派の最大の違いは打撃理論
アッパースイングを否定してダウンスイングに拘るのが川上派で
ダウンスイングに拘るなというのが長嶋派
このことで荒川と青田がよく対立していた
野武士野球の系譜は三原→仰木だろう。
長島が目指したのはメジャーリーグのスタイル。
ダイナミックでファンが喜ぶ野球だよ。
山際淳司が第一次長島政権のデータ調べて書いてたけど、
スキあればバント、スキあれば継投。
第二次政権はリアルタイムで見てたけど
要は堪え性のない人なんじゃないか?
コイツは!と思って使った選手がダメならすぐ見捨て次の選手を探す。
それがダメならまた次を……。
選手に不満は残るが
ミスターだけに文句は言えない。
今となっては皮肉なフレーズだが
第二期監督時も清原バントとかやらせてたよな
クリーンベースボールってあんま話題になんないけど
凄いフレーズですよね。
要はV9巨人はせこいことやってたってことでしょう?
基本的にクリーンな野球なんざない。
相手の裏をかいて、そのまた裏をかく。
そこで「クリーンベースボール」
どう考えったって負けるよね。
三塁コーチの篠塚に確認したらキヨ、バントのサイン出ちゃったよと
たしか阪神戦で
次打者は由伸だった。結局由伸は凡退し無得点だった。
長嶋広岡森王の下でコーチ
80年オフ藤田にコーチ要請しているが
先に要請があったが中日のコーチへ
どちらかといえば王かな
黒江の弟子の伊原が巨人でヘッドコーチやってたし
藤田派とも繋がりは深いね
解雇されたような事を、選手引退の時の本で
土井の所で載ってた覚えが。
黒江がいなくなるのでコーチ兼任だった土井が引退して
コーチになった事で。
三塁コーチャーだったが
強引すぎるほどに本塁突入を敢行し憤死が続出。
マスコミからは「壊れた信号機」と揶揄された挙げ句に
78年閉幕後にクビ。
柴田よりはマシだろ。
巨人ではどうだったんだ
あと高田。
こいつは土井以上に失敗ばっかなのに
なんで叩かれず仕事が来まくるんだ
いいイメージないな
三本柱頼みだった堀内のコーチ時代も酷かったが
土井はオリ監督辞任後巨人コーチでオリに日本シリーズ負けて
その後二年連続優勝逃して辞めた
川上派 鶴岡派
長嶋派 野村派
森広岡派 大沢親分か?
大沢は鶴岡寄りだろ。生前から野村に批判的だったよ。
>>146
ロッテに放出されて一時は鶴岡嫌いになった。
当時SFジャイアンツとの帰属問題の渦中にあった
同じ神奈川県出身の村上投手に対して
「南海みたいな面倒観ない球団なんかに居るくらいなら
大リーグに行っちまえよ!」
と吐き捨てたなんて逸話も。
後に10年選手ボーナスの便宜や
引退後のコーチ就任込みのロッテ放出と
理解して再び鶴岡に恩義を感じる様にはなったけど。
当時はロッテじゃないよ東京オリオンズ。
監督1年目までは王は叩いてはいけない聖域だったから
あまりよく思われていなかった柴田が生贄になった。
王も3年目あたりからはぼろ糞
最後の年あたりは叩かれ過ぎくらいだったけど。
堀内は長嶋の時投手コーチ時代だったが3本柱頼みだった
堀内の在任時(84~85)、斎藤は割と順調だった。
堀内退任後、微妙な扱いになっていった。
順調じゃねえよ。明らかに伸び悩んでただろうが。
最初に活躍したのは前監督藤田がサイドスローに転向させたことが大きい。
藤田が復帰したとたん平成の大エースに大化け。
堀内は何もしてない、無能コーチの極み。
>>184
現実に入団3年目の85年はチーム最多の12勝、
防御率はリーグ3位なんだから、順調に育ってたと言えるんじゃないのか?
翌年(コーチは堀内→皆川)
途中から何故か先発から外されたのが不思議だった。
だからそれは藤田がサイドに転向させたからだ。
堀内は何にもしてない。
藤田と二軍首脳陣が育てたんだから活躍は彼らの功績。
それが85年だけの一発屋になりそうになったのは堀内の責任。
実際85以降は転落したんだから
藤田が復帰しなかったら終わってたわ。
>>186
斉藤は86年87年と悲惨な状態だったよ
若手では水野槇原桑田に押されてたじゃん
88年は持ち直してたから
王が先発で使わなかったことを言われても仕方ないが
ブレイクした89年も4月は一進一退で危うい状態だった
もしガリクソンが健在だったら
藤田だってあそこまで辛抱できたかわからんぞ
指導者として巨人に戻ってくるのだろうか
歳だけど
>>151
多分無い
前投手コーチやってた香田も今は阪神で
駒田に至っては巨人が一度もないからな
フロントと行き来してるコーチとか一部の例外は別として
一度コーチやった人がまた復帰したり
他球団でコーチやった人が長いブランクがあって
巨人のコーチでやる例は少ない気がする
長嶋は第二次監督時代の末期、
グラウンドに西本と広岡がいるときは監督室にこもってたらしい。
何かいきさつがあったのか苦手なタイプだったんだろう。