今から15年前、ひとつの球団が55年の歴史に幕を下ろした。近鉄バファローズ。「いてまえ打線」と呼ばれた強力な打撃陣を擁し、豪快な野球で多くのファンに愛されたチームだ。その球団史における最後の選手会長となったのが、1997年から2004年まで近鉄に在籍し、勝負強い打撃を武器に主力として活躍した礒部公一氏だ。
2: 名無し 2019/12/07(土) 13:47:49.98 ID:QTtjFs5v9
2019年11月26日に、礒部氏の全面協力のもとで『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』と題した書籍が発売された。本書は、梨田昌孝氏、ラルフ・ブライアント氏、岩隈久志投手をはじめとした多くの近鉄バファローズ関係者への取材に基づき、その球団史と人々の想いを伝える内容となっている。
近鉄の球団史においても重要な役割を担った存在である礒部氏にとって、今回の書籍取材はどのようなものだったのか。球団消滅から15年が過ぎた今、自身の「近鉄人生」と、全ての野球ファンに伝えたいことについて、礒部氏に話を聞いた。
礒部氏は西条農高、三菱重工広島で捕手として活躍し、1996年のドラフトではプロ入りが有力視される存在となっていた。当時、礒部氏が最初にスカウトから指名の挨拶を受けたのは、近鉄ではなく、オリックスだったという。
「その年の2位が谷(佳知)さんで、3位が僕の予定だったらしいのですが、谷さんとは仲が良かったですし、一緒にやれればいいなという感じで、『オリックスに行きます』と伝えていました」
しかし、同年のドラフトでは、オリックスよりもウェーバー順が上だった近鉄から3位指名を受ける。先述の理由でオリックス入りを志望していた礒部氏だったが、「ケガをしたらプロに入れるかどうかもわからなくなる状況ですから、気持ちの中では、指名されたところに行こうと思っていました」という。そんな中で、ドラフト直後に佐々木恭介監督(当時)が広島までヘリコプターを飛ばし、礒部氏に対して入団を直々に説得した。
「最初から(近鉄に)行こうとは思っていましたが、次の日にヘリコプターですぐ来てくれて、ありがたかったですね。前の年に(福留)孝介に断られた後でしたし、どうしても入団させなきゃ、という感じだったのかなと。それだけ必要としていただいているんだな、という気持ちは、十分に伝わりました」
コンバートを経て優勝に貢献し、“近鉄最後の選手会長”に
当時の近鉄の捕手陣は守備型の選手が多かったこともあり、礒部氏は“打てる捕手”としての期待を受けてチームに加わった。その打力を活かすため、入団当初は捕手と外野手を兼任し、時には試合途中に外野から捕手に回ってマスクを被るという、現在のプロ野球では考えられないような役割をこなしていた。
立場上、捕手のミーティングにも常に参加し続ける必要があり、「外野で守っている方が全然楽でした。キャッチャーは重要で、大変なポジションですから」と当時を振り返ったが、「社会人の時からやっていて、プロに入ってからもその流れでやらせてもらって。僕はもう、それに慣れっこでしたから。僕たちにとっては試合に出ることが一番だったので、どういう形であれ試合に出られて、僕の中ではよかったなと思います」と、難しい役割にも前向きに取り組んでいたという。
その後、2001年の開幕直前に外野手へ専念することに。この年は「6番ライトで出た開幕戦で逆転3ランを打って、外野手としてのいいスタートが切れた」という。その後、タフィー・ローズ氏と中村紀洋氏の後を打つ5番打者に定着。17本塁打、95打点、打率.320という好成績を記録してベストナインにも選出され、球団最後のリーグ優勝に大きく貢献した。
「逆転勝利もかなり多かったし、波に乗ったチームの中で、その波に乗らせてもらったという感じの1年でした。リーグ優勝もしましたし、(無安打に終わった)日本シリーズで逆シリーズ男にもなりましたし……何かと、印象深いシーズンでしたね」
その後、礒部氏は2003年にチームの選手会長に就任。2004年には球団合併阻止のために奔走したが、球団を存続させることはかなわず。結果的に、礒部氏は“近鉄最後の選手会長”となった。
「僕にとっても、すごく辛かったですけど……一番最後に選手会長としてそういう活動ができたことは、野球人・礒部公一をつくるうえでは、いい経験になったんじゃないかとは思います。ただ、今後、ああいうことはあってはならないと思いますし、勘弁してほしいですけどね。若い選手たちには、僕と同じような気持ちになってほしくはないですから」
>>2
梨駄に捕手に戻された2000年は規定打席に到達
しなかったとはいえ打率.311
礒部公一を外野に戻すということは強打の外野手
がスタメン落ちする一方で捕手に打てない選手を
使わざるを得なくなる(結果1割台だったし)
梨駄も悩んだだろうなあ
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あれって岡本太郎がデザインしたんだ
監督だった千葉茂の愛称が猛牛だったので
パールズからバッファローズに
改称して球団のマークもウシ科になった。
昔は関西の私鉄はみんな球団持っていたのに
全滅しちゃったねえ
阪急が阪神グループごと所有しとるやんけ
巨人の岩隈、ヤクルトの坂口と近藤の3人でいいのかな?
坂口はオリックスじゃない?
あ、勘違いだったすまん
いや、正しいよ
坂口は2016年からヤクルト移籍
同じ関西私鉄の阪急や南海は
80年代終わりにすでに球団を売り払っていたからな。
誰からも慕われた小林米三さんが急逝して
小林公平(女壻)がトップになっちゃった不幸
あの宝塚歌劇団も売却を画策してたからな
小林公平は宝塚を異常に愛してた
ホリエモンが急にすり寄ってきたもんね。
は?当時から立地だけは最高だろ
立地は最高だったけど、環境は悪かったなぁ。
付近は酔っ払いとか浮浪者とか多かったし、街は臭かったし、
観客の野次は汚かったし、南海電車はボロかったし。
当時の難波はいつも暗い霧がかかっていたような印象がある。
>>12
当時から最高の立地だよ
何で客が来ないのかとさんざん言われたわ
>>60
人が集まる繁華街の映画館で
人気ない映画だったら誰も観に来ないからな
門田とドカベン香川の顔は分かるが
3人の山内、藤田学、河野と定岡の巨人に兄弟がおるコンビ
名前は知ってても道で会っても誰も気づかんわな
金村の話は草の悪口と優勝旅行のドケチぶりだけだから
あの人の野球漫談はネタとして楽しむのが正しい
当たり前だけど全く違う感じになっていた…
よくあんな所に球場あったなぁ~バファローズスタジアム!
今小学校だから下手にじっくり見ていたら
通報されかねないしなぁ…
今回出版された書籍の前半部分では、“悲運の名将”と呼ばれた西本幸雄氏の談話やエピソードが多数紹介されている。“お荷物球団”と揶揄されるほどの弱小チームだった近鉄を熱心な指導で立て直し、1979年の球団史上初のリーグ優勝、そして翌年のリーグ2連覇へとチームを導いた、まさに近鉄の礎を築いた闘将だ。
礒部氏は西本氏の指導を直接受けたわけではないが、梨田昌孝氏や羽田耕一氏といった、西本氏の教え子だった近鉄のコーチの指導を通じて、その教えを学んだ。
「梨田さんもよく言われるのですが、仰木(彬)さんの時代も含めて、近鉄では西本さんの野球がずっと続いていました。自分がコーチになって指導する際にも、自分では気づかないうちに、そういった部分が少しずつ出ているのかなと、後から考えれば思うこともあります」と、その教えはさらに後の世代にも受け継がれているようだ。
西本氏が作った“強い近鉄”の潮流は、その後も球団の伝統となって確かに息づいていた。礒部氏が「僕にとっては最高の二塁手。最高の守備職人」と絶賛する盟友・水口栄二氏は、1991年に近鉄に入団。普段は選手個々がバラバラでも、いざ試合が始まるとひとつにまとまってプレーするところに感銘を受けたという。そういった姿勢は、礒部氏が入団した1997年になっても継続していた。
「もう、そのまま残っていましたよ。プライベートは全然バラバラでも、試合や練習の連携プレーではばっちりのタイミングでやれるんですよ。本当にプロというか、『あの人とあの人は仲が悪いのに、いざ野球となるとこんなに上手くできるんだ』と。プライベートが全く関係ないという話ではないですが、昔の西武もそうだったんじゃないですか? 強いチームって、こういうことなんだなとは思いましたね」
「いてまえ」の合言葉通り、豪快なエピソードの多かったチームだが……
捕手として個性の強い投手たちとコミュニケーションを取っていた礒部氏は、5度の最優秀救援に加え、1992年には抑えを務めながら最優秀防御率を獲得するという離れ業を演じた剛腕・赤堀元之氏の意外なエピソードも明かしてくれた。
「赤堀さんなんか、試合前にずっと漫画を読んでましたね。どんだけ漫画読むねんって(笑)。8回から9回が赤堀さんの仕事場なので、球場に入るのも遅かったりしました。仰木さんの時には現在のような、クローザーもホームゲームでは3時間半前くらいから練習という感覚は近鉄にはなかったと思うんですよね。やはり、試合でベストパフォーマンスを出すことが一番で、クローザーなら別に早く来なくても、ゆっくりその時間に合わせて来ればいいんじゃないかと。やっぱり、それも近鉄らしさですかね」
また、書籍の中では、金村義明氏の談話として、1988年と1989年の2度にわたるダブルヘッダーで日本中の注目を集めた名監督・仰木氏が、翌日のショートの先発を北海道遠征で訪れたサッポロビール園での一気飲みで決めたことがあるという、現在では到底考えられない驚きの逸話も紹介されている。
「『ショート、誰が行くねん』と。真喜志(康永)さんなんか、普段酒飲まないのに一生懸命飲んでたらしいですよ。普通、レギュラーを一気飲みの早さで決めますか? ある程度の立ち位置の選手だけでやるならいいんですけど、控えの控えみたいな登録メンバーで勝負するぐらいですからね。ありえないような話ですけど、仰木さんのやりそうなことだなあ、と。元々そういう、お酒を飲みながら何かするのが好きな方でしたから」
今回の書籍の中には、他にも、いかにも近鉄らしい、豪快かつ人情味のあるエピソードが多数収録されている。とはいえ、実際の近鉄というチームは、世間一般の豪快なイメージとは異なる一面も持っていたという。
「打ち勝つ野球が多くて豪快に見えるでしょうが、細かいサインプレーなどもしっかり入れながら、というチームでしたので、周囲が思うほど僕たちは『いてまえ』という感じではないんです。僕たちが入った時には分析担当のコーチの方もおられましたし、元々の豪快な野球に緻密さを足すことで強いチームを作っていこう、という、ちょうどそういった世代でした」
球界再編に揺れた2004年のことを知らない野球ファンに、礒部氏が伝えたいこと
15年という月日は長い。今や、近鉄に在籍経験のあるNPBの現役選手は、岩隈久志投手(巨人)、近藤一樹投手、坂口智隆外野手(ともにヤクルト)の3人を残すのみだ。
「年齢は年齢ですが、主軸で出られる選手3人なので、最後までもがいてほしい。(近鉄のことを)語れる人間がいなくなってしまうので。坂口と近藤は、僕たちと一緒に(1軍で)やってはいないんですが、クマ(岩隈投手)は今回、話に行ったときにも『基礎は近鉄』という感じで話してくれましたし。とにかく、あいつらには頑張ってほしいですよね」
球界再編の波が押し寄せた2004年、礒部氏を含むプロ野球選手会の尽力によってさらなる球団削減は避けられ、楽天の参入による12球団による2リーグ制を維持することができた。それから15年が過ぎ、当時のことを知らない人々の数も増え始めている。
「15年前というと、今の若い子の中には何が起きていたかわからない方もいると思います。もちろん、経験しない方がいいことだとは思いますが、こういうことがあったから選手会が強くなって、今も12球団が存続しながらやっているんだよ、ということを、中学生や小学校高学年くらいの子ならこの本によって理解できると思うので、読んでもらいながら球史の勉強をしてほしいなと思いますね」
当時のことを知らない野球ファンに対して特に伝えたいことを聞くと、礒部氏は次のように答えてくれた。
「一番最初に、近鉄という豪快なチームがあったんだよ、ということを教えてあげたいです。また、経営や商売の話になってくるので、プロ野球でチームを残すということは非常に難しいんです。本に書いた内容も含めて、今後プロ野球が良くなるように、こういうこともあったんだよということを教えていってあげたいなと思います」
「この本によって、まだまだ近鉄で繋がることができると思います」
奈良県に、「B-CRAZY」という居酒屋がある。店主の浅川悟氏は球団消滅から15年が経った今も近鉄を愛し続ける生粋のファンで、今回の書籍でインタビューを受けた人物の一人でもある。店には多くの近鉄グッズが展示され、近鉄OBを招いたイベントも度々開催。礒部氏も、実際にこの店を訪れたことがあるという。
「別件で足を運んだ際に“近鉄難民”という言葉を使わせていただいたのですが、どこを応援したらいいかわからなかったり、近鉄がなくなってどこか気が抜けてしまったりと、僕たち以上に苦労しているファンの方々もいます。このような本を出したことによって、昔の話をしたり、ファンの方と一緒になって、イベントの中でいろいろな話をしながら楽しんでいければと思います」
通算4度日本シリーズに臨みながら一度も日本一に輝くことなく消滅した、「記録よりも、記憶に残るチーム」だった近鉄。最後に、礒部氏は当時から現在まで近鉄を応援し続けているファンの方々や、この本を手に取ってくれる人々に対して、メッセージを贈ってくれた。
「もう近鉄というチームはないですが、この本によってまだまだ近鉄でつながることができると思います。そのつながりは僕も一生続けていきたいですし、ファンの方とのふれ合いや、固い繋がりができればいいなと。いいメンバーに話を聞いて、元永さんと集英社さんにまとめていただき、僕たちとしても本当に感動できる良い本になったので、ぜひ購入していただきたいなと思っています」
かつてパ・リーグには、その豪快な野球で人々を魅了した、近鉄バファローズというプロ野球チームがあった。西本氏から続く近鉄の伝統を引き継いだ礒部氏たちが、またその次の世代へと「近鉄」という存在をつないでいく。たとえ球団がなくなったとしても、近鉄を愛し、後世にその輝きを伝えたいと願う者がいる限り、「記憶」という名のバトンは、きっと受け継がれ続けていくことだろう。
インタビューの最後に、55年の歴史を持つ近鉄の歴代ベストナインについて礒部氏に聞いた。投手(野茂英雄氏)、三塁手(中村紀洋氏)、監督(西本幸雄氏)の3ポジションはほぼ即決。とりわけ頭を悩ませていたのが遊撃手のポジションで、当初はキャリア序盤に強打のショートとして活躍した村上隆行氏の名前を挙げながら、最終的には同じく若手時代に遊撃手としてプレーしていた水口栄二氏を選出している。
一塁手としては礒部氏と同じ1997年に入団して主砲として活躍し、イチロー氏と首位打者争いも演じたフィル・クラーク氏を「僕が見た中では一番」と高く評価したが、1994年の打点王にも輝いた石井浩郎氏を選出。外野は礒部氏本人が「僕は別に入らなくてもいいと思いますけどね」と語るほど層が厚く、主力として安打を量産した3選手が名を連ねた。
礒部氏が選ぶ、近鉄バファローズの歴代ベストナインは以下の通りだ。
投手:野茂英雄氏
捕手:梨田昌孝氏
一塁手:石井浩郎氏
二塁手:大石大二郎氏
三塁手:中村紀洋氏
遊撃手:水口栄二氏
左翼手:タフィー・ローズ氏
中堅手:大村直之氏
右翼手:新井宏昌氏
指名打者:ラルフ・ブライアント氏
監督:西本幸雄氏
(記事提供:パ・リーグ インサイト)
ピッチャーは鈴木啓二かと思ったけど
指導者時代に色々あったからって事か
もちろん野茂は野茂で偉大なんだけど
成績不振で今期で監督解任と報道された瞬間
選手達が急にやる気を出して
プレーオフ進出まで盛り返して
やっぱり続投、ヽ(・ω・)/ズコー
ってなった事があったよな
>>25
監督、ピッチャー、キャッチャーはこれでええけど
一塁手 小川亨
二塁手 永尾泰憲
三塁手 羽田耕一
遊撃手 吹石徳一
左翼手 栗橋茂
中堅手 平野光泰
右翼手 佐々木恭介
指名打者 マニエル
のV1メンバーが最強やろな
監督は仰木も有りか
>>70
さすがに「自分の知る範囲で」選出したんだと思うよ
そうでなきゃ土井正博が入らないなんてあり得ないし
土井もせやな
そういや、あの当時、抑えも整備されてた
若武者山口哲治、ちょっと後やけど石本貴昭も良かった
これもベストに入れていいやろ
新井宏昌も元は南海じゃなかったっけ?
土井はキャリア的に当然だが
西本御大にトレード放出されたのと
唯一タイトル獲得したのが
移籍先ライオンズで
引退後もコーチを務めて在籍年数も近鉄より長いから
野球通や古くからの近鉄ファン以外には
ライオンズのイメージの方が強いと思う
石井って近鉄だったんだな。
なぜか秋田で国会議員になった元あみんの旦那という属性に
バッファローズの要素など見当たらないんだが。
そりゃ秋田出身だからな石井は
>>248
鈴木啓二の名前が入ってませんやん
近鉄弱小時代にコツコツ積み上げ初優勝に貢献、最後の300勝投手を
野茂は近鉄在籍期間は短く、
アメリカでの活躍が記憶の多いが記録もあるが記憶に残る投手
今年のセリーグの新人王みたいに、どっちが上かは比較難しい
近鉄のエースといえば
鈴木啓二、井本、村田、小野、阿波野、野茂
それ以降のエースが思い浮かばない
鈴木啓示な
エースっぽいのは高村かなぁ
というても二桁勝ったのルーキーイヤーだけやけど
汗かきさんは嫌いじゃないけど
近鉄を代表するエースかっていうと違うな。
監督の印象悪杉だけど、
近鉄のエースっていえば鈴木啓示でしょ。
藤井寺球場=私立小学校
日生球場=商業施設
大阪球場=商業施設
西宮球場=商業施設
昭和時代かある球場は甲子園と西京極くらいか
>>27
中百舌鳥球場ってのもあったな
あれって大阪球場潰して、
一時的に南海の本拠地だった事があったんかな?
京都に衣笠球場ってのもあったらしい
松竹が本拠地だったか?
広島の衣笠は平安高校なんで地名と名前関係あるのか?
高校野球の大阪が使用してる球場も、
住之江と万博ぐらいしか昭和からは残ってなさそうやな
南港2つと花園ラグビー場の球場が平成になって出来た
中百舌鳥はあぶさんが練習してたな
まだまだ老け込む歳ではなかったが急激に衰えたな
こんだけ熱意をもって
近鉄を残そうと奔走してたみたいだし
燃え尽きちまったんだろうな
>>32
球団創設初主催試合先頭打者本塁打男。
活躍したよ。
オリックスバファローズなんて馬鹿なチームにしたもんだから
実質ブルーウェーブとバファローズの2球団が消滅したんだよ
神戸民は「オリックスじゃない」と思ってるし
大阪民は「バファローズじゃない」と思ってる
オリックスは近鉄に気をつかうことなく
ブレーブスの名を復活させてほしかった
どれだけ叩かれようがフロントは
「これは対等合併ではなく吸収だ」
「ギブアップした近鉄球団の後始末を我々がしてやってるんだ」
という姿勢を強く表すべきだった
心の底から同意
福岡のホークスも来年で
SB時代がダイエー時代と年数が並ぶんだっけ
ダイエー=1989~2004 16年
ソフトバンク=2005~2020 16年
このくらいの時期から
小中生の野球人気がじわじわ下がり始めてるんだな
球場に来る観客は総じて増えているのに、
テレビの視聴率はどんどん下がっているんだよねぇ。
まぁ、テレビ自体を見る人が減っているということもあるだろうけど。
球場埋めるのなんか
世間一般の大半は全く聞いたこともない声優が
何日もドーム埋めたりとかその程度なんだから
そりゃ埋まっても全体の人気に繋がらないのなんか当たり前だわ
同じ奴が何度も何度も足運んでんだしな
なるほどなぁ。。
野球人気復活はなかなか厳しそうだなぁ
・専属マネージャー
・年金
・ポスティングシステムを使っての大リーグ入り容認
・家族にボディーガードをつける
・子供の進学の面倒を球団が見る
・家族のためにお手伝いをつける
・いつでも気分転換できるように常時プレーできるゴルフ会員権が欲しい
・護衛をつける
・両親の家を建てる
・待つのも誠意。FAの醍醐味を楽しみたい
・「中村紀洋というブランドをまず考えて近鉄で終わっていいのか 」
これって何処までがネタなの?
全部ガチ
あの時の両監督や選手達も結構もう他界されてるんだな
有藤「オレを勝手に殺すな」
小川「死んではいないがムショにおる」
4人亡くなってるね
意味のわからん吸収合併しちゃったからな
それをやっちゃうと
楽天球団が近鉄球団の様々な債務を背負う事になる。
特に大阪市と大阪ドーム使用に関する様々な契約関係があったから
それを引き継いだら仙台への本拠地移転なんて不可能だった。
その後プロ野球から興味なくなった
プロ野球に余計な時間を奪われなくなってよかったかなと思ってる
(会社にとって)要らんもの切りまくったからな
養老線や伊賀線、ナローゲージ等の赤字ローカル線
バファローズ、OSK、花園ラグビー場、あやめ池遊園地等々
後はスペイン村くらいか
俺が見た全スポーツの中で一番印象に残ってる
アレな、ワイも覚えとる。
ロッテ高沢の同点弾
金やんの第2試合執拗な抗議による
延長阻止時間引き伸ばしは絶対に許さない
地獄へ行け
いくらなんでもそれは金やん可哀想や
足上げたところにトレーバーの顔にはワロタけど
あれ?金やんだったっけ?
てっきり有藤だとばかり
ああ、スマン
よく思い起こせば有藤だった
どうも昔のロッテは金やんのイメージが
また近鉄復活せんかな
今やったら広島みたいな経営でやっていけると思うんやけどな
さらにケチって、イベントなし、サードユニとかもなしなんかにして
地味路線走ったらええねん
大体、調子乗って大阪ドーム作ったんが失敗の始まりやろ
佐伯オーナーやら上山オーナーが死んでからやばそうやったけどな
球場も地味
近鉄は藤井寺、日生でええねん
たまにナゴヤ球場、西京極とかな
こんな地味なチーム今はないから逆にウケるはずや
あ、中継も
ラジオ大阪の近鉄バファローズナイターとKBC京都だけでええ
土曜日のデーゲームはABCラジオでやってたけど名前忘れた
今は無理っしょ。
12球団に+1の奇数じゃ数が悪い。
せめて2球団できないと
ちなみに藤井寺はイオン。
日生はキューズモールだからこっちも無理w
>>89
当時は関西私鉄黄金時代だったからな。
当時の関西の国鉄が
「高い、遅い、ボロい、本数少ない」
と惨憺たる状況だったから客もみんな私鉄に乗ったから
各私鉄は大いに潤って
プロ野球チームを運営する余裕が出来た。
それが国鉄がJRになって
私鉄の客を奪い出したから余裕が無くなった。
>>117
JRになってスピード競争には勝てん
それで阪急や京阪は
特急停車駅増やす結果になったらしいな
特急も急行も変わらんやん
京阪から七条までノンストップでテレビ見れる京阪特急好きやった
また京都の駅がいかにも京都らしい風景だった、昔の淀駅とか
昔の三条や四条の駅は殺風景で良かったわ
西京極は阪急主催やったか
西京極は近鉄主催ゲームもあったよ
ダイエー時代の下柳初登板試合観戦したことがある
おおきに
グリーンスタジアムが出けて、西京極が浮いたんやったかな?
で、主催出けたんかな?忘れてもうた
とりあえず近鉄の球場に屋根も照明もいらんねん
椅子もいらん
コンクリート剥き出しに新聞敷いた自作でええねん